【連載】微量元素分析 -さまざまな分野での活用事例とその重要性-「第3回 キ レート樹脂濃縮法による環境水試料の前処理法における注意点」
本記事は、和光純薬時報 Vol.90 No.1(2022年1月号)において、環境省 環境調査研修所 藤森 英治様に執筆いただいたものです。
はじめに
誘導結合プラズマ質量分析法(ICPMS)は、極微量レベルの多元素同時分析が可能であり、汎用的な分析機器のうち最も高感度な元素分析法である。環境分析の分野においても、コリジョン・リアクションセル技術の発展に伴い、その適用範囲は急速に拡大している。
イミノ二酢酸系キレート樹脂を用いる固相抽出法(キレート樹脂濃縮法)は、遷移金属類の多元素濃縮とアルカリ・アルカリ土類金属の除去が同時に達成できることから、ICP-MS測定のための環境水試料の前処理法として広く利用されてきた。公定分析法においても、JIS K0102「工場排水試験方法」の2013年の改正においてキレート樹脂濃縮法が採用されたことから、今後ますますその適用範囲が拡大することが期待される。
ただし、キレート樹脂濃縮法を実際に環境水の分析に適用する際には、様々な注意点がある。そこで本稿では、著者の経験から、試料の前処理、ICP-MS測定におけるスペクトル干渉への対策、標準液の調製における注意点について解説する。
キ レート樹脂濃縮法を環境水に適用する際の共存キレート剤の影響
前述したように、キレート樹脂濃縮法は遷移金属類の多元素濃縮が可能であり、吸着時のpHを4.0 〜6.0程度に調整すれば、分析対象元素をほぼ定量的に回収可能であるとみなされている。ところが、著者が下水放流水を含む河川水試料にキレート樹脂濃縮法を適用したところ、いくつかの元素で回収率の低下が認められた。様々な検討の結果、現状では排水に含まれるエチレンジアミン四酢酸(EDTA)等のキレート剤が原因であると考えている1)。
図1は、Presep® PolyChelate(以下、Presep®)を用いてFe、Co、Ni、Cu、Zn、Cd、Pb各10μg/L混合溶液を濃縮する際に、共存EDTA濃度を変化させた際の回収率をまとめたものである。なお、Presep®は操作性を改善するために、写真上の3 mLのシリンジから写真下の12 mLの空リザーバへ再充填して使用している。
図1からわかるように、共存EDTA濃度が0.1μMを超えると各元素の回収率の低下がみられ、5μM共存した場合にはすべての元素の回収率が4%未満となった。キレート剤共存による回収率低下が問題となる場合は、試料の高温酸処理が効果的である。
様々な検討により、試料50mLに対して硝酸2.5mLと過酸化水素1mLを添加し、170℃以上で4時間加熱することにより、共存EDTA等の影響が除去できることが分かった1)。このように、EDTA等のキレート剤を含む工場排水や生活排水、またそれらが流入する河川水や沿岸海水等にキレート樹脂濃縮法を適用する際には、必ず添加回収試験を実施し、回収率の低下が認められた際には適切な前処理(酸処理等)が必要である。
カドミウム測定におけるモリブデンのスペクトル干渉
イミノ二酢酸系キレート樹脂濃縮法においては、一般的な遷移金属の回収に適したpH 4.0 〜6.0において、Mo等のオキソ酸陰イオン生成元素の回収率が悪いことが欠点の一つとして挙げられる。このような欠点を補完するために、様々な改良型イミノ二酢酸系キレート樹脂が市販されており、その中でもPresep®は遷移金属類とMoが同一のpHで回収可能であることが大きな特徴の一つに挙げられる。
図2には、pH 5.0におけるCd及びMoの回収率について、市販の様々な固相カラム(日立ハイテク製NOBIAS PA1(NOBIAS),ジーエルサイエンス製InertSEP® ME-2(ME-2),InertSEP® ME-1(ME-1))の比較を示した。図1からも明らかなように、Presep®はCdとMoが同一のpH条件(pH 5.0)で定量的に回収可能である。
ところが、この特性がICP-MSによる極微量レベルのCd分析において問題となることがある。ICP-MSによるCdの測定では、Moの酸化物イオンによる多原子イオン干渉(95Mo16O→111Cd,98Mo16O→114Cd)が知られている。例えば、海水試料にはMoが約10μg/L含まれており、極微量レベル(ng/Lレベル)のCdの測定の際には、MoOによる干渉が無視できないレベルとなる。このような場合には、数学的補正による多原子イオン干渉の補正が必要となる2)。
一例として、Presep®を用いて沿岸海水を40倍濃縮し、ICP-MSで測定した際のCdの測定結果を紹介する。この沿岸海水試料にはMoが約10μg/L含まれており、40倍濃縮した際の濃縮液中濃度(測定溶液中濃度)は約300μg/Lとなった。表1は、沿岸海水試料をPresep®で40倍濃縮した際のCdの測定結果で、MoOの干渉補正なしでは16.2ng/Lとなったのに対し、補正ありでは10.5ng/Lであり、この差分である5.7ng/LがMoOに起因する多原子イオンによる干渉濃度である。
表1.数学的補正の有無による沿岸海水中Cd の測定結果の違い
干渉補正あり | 干渉補正なし |
---|---|
10.5 ± 0.2 | 16.2 ± 0.2 |
(単位 ng/L)
なお、Cd濃度が1ng/Lレベルの外洋海水の場合には、数学的補正が適用困難であるため、化学分離によるMoの選択的除去が必須となる。Moの選択的除去法については文献2, 3)を参照されたい。
ICP-MS測定用多元素標準液調製における注意点
ICP-MS測定用の多元素標準液を調製する際には、①スペクトル干渉が問題となる元素の混合を避ける(MoとCdなど)、②沈殿生成の恐れがある元素の混合を避ける(AgとClなど)、③濃度レベルの大きく異なる元素の混合を避ける(mg/Lとμg/Lなど)、④硝酸酸性溶液以外で安定な元素は硝酸による希釈は測定直前に実施する、等の注意点がある。ここでは、①のスペクトル干渉への留意点について、希土類元素(ここではLa 〜Luのランタノイド)を例に紹介する。
ICP-MSを用いる希土類元素の定量の際には、希土類元素相互のスペクトル干渉(同重体イオン、酸化物イオン及び水酸化物イオン)に留意する必要がある。希土類元素の測定の際には、まず同重体干渉がない質量数(m/z)を選択する。さらに、酸化物イオンや水酸化物イオン等の多原子イオン干渉は、数学的補正により補正する必要がある。
ICP-MSによる希土類元素の測定時に問題となる主な多原子イオン干渉は表2の通りである。このように、多原子イオン干渉が問題となることがあらかじめ判明している場合には、それらの元素の混合は避けるべきである。
表2.希土類元素測定の際に問題となる主な多原子イオン干渉
測定イオン | 干渉イオン |
---|---|
151Eu | 137Ba16O |
153Eu | 135Ba16O |
157Gd | 141Pr16O, 140Ce16O1H |
159Tb | 143Nd16O |
163Dy | 147Sm16O, 147Nd16O |
165Ho | 149Sm16O |
166Er | 150Nd16O, 150Sm16O |
169Tm | 153Eu16O |
172Yb | 156Gd16O |
175Lu | 159Tb16O, 158Gd16O1H |
一例として、著者は検量線作成用標準液を以下の4グループに分けて混合している(グループⅠ; La, Ce, Lu,グループⅡ; Pr, Nd,グループⅢ ; Sm, Eu, Gd, Tb,グルー プⅣ ; Dy, Ho, Er, Tm, Yb)。希土類元素に限らず、ICP-AESやICP-MS用の多元素混合液が市販されているが、多原子イオン干渉の有無について確認し、必要に応じてその組み合わせを決定することが重要である。
おわりに
本稿のまとめにかえて、キレート樹脂濃縮/ICP-MSの応用例として、多摩川河川水中希土類元素の分析結果を紹介する。希土類元素は、環境中における元素の循環や分配挙動の指標として利用できるため、その精密分析が必要となる。
多摩川には下水放流水が多量に流入するため、EDTA等のキレート剤共存による回収率低下が懸念される。そこで、試料200mLに硝酸10mLと過酸化水素4mLを添加し、200℃で4時間加熱処理した。分解後の試料はPresep®を用いて40倍濃縮を実施した。ICP-MS測定の際には前節の4グループの標準液を用い、スペクトル干渉の数学的補正を施して測定値を得た。
表3は、多摩川最下流の河川水中希土類元素濃度の測定結果である。表からわかるように、試料中ng/Lと極微量レベルである希土類元素を精度よく測定することが可能となった。
表3.キレート樹脂濃縮/ ICP-MS による多摩川下流水中希土類元素の分析結果
元素 | 測定値(ng/L) |
---|---|
La | 4.75 ± 0.08 |
Ce | 4.27 ± 0.08 |
Pr | 0.973 ± 0.027 |
Nd | 4.87 ± 0.09 |
Sm | 1.22 ± 0.03 |
Eu | 0.353 ± 0.008 |
Gd | 8.87 ± 0.18 |
Tb | 0.343 ± 0.007 |
Dy | 3.09 ± 0.03 |
Ho | 1.16 ± 0.02 |
Er | 5.31 ± 0.12 |
Tm | 1.04 ± 0.02 |
Yb | 9.44 ± 0.10 |
Lu | 2.02 ± 0.02 |
図3は、希土類元素存在度パターンと呼ばれるもので、試料中の希土類元素濃度を基準物質(ここでは頁岩)で規格化したものを原子番号順にプロットしたものである。詳細な説明は割愛するが、このパターンは希土類元素の分布の特徴を議論する際に使用されるもので、多摩川河川水では、下流においてGdの正異常が大きくなることと、プロットの右上がり傾向が大きくなることが特徴である1)。
このように、キレート樹脂濃縮法は、ICP-MSを用いる環境水中のng/Lレベルの元素の精密分析のための前処理法として、非常に有用な方法であるが、本稿で紹介したような様々な「落とし穴」がある。ここで紹介した内容は、著者の実際の経験から明らかになった一部であり、試料や測定装置により問題点やその対策法は異なるので、皆様もご注意いただきたい。
参考文献
- Fujimori, E. et al. : Chemosphere, 214, 288 (2019). DOI: 10.1016/j.chemosphere.2018.09.073
- 藤森英治:分析化学,65,275 (2016).
- 高久雄一 他:分析化学,65,399 (2016).