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【特別講座】広がる重水素の用途

本記事は、OrganicSquare Vol.33 (2010年9月号)において、東京大学大学院 理学系研究科 化学専攻特任助教 佐藤 健太郎 様に執筆いただいたものです。

通常のほぼ倍の質量を持つ不思議な水素、すなわち「重水素」が H.Urey によって発見されたのは 1931 年のことだ 1)。これは史上初めて「同位体」の概念を実証したという点で、まさに化学史に燦然と輝く発見といえる。しかし我々後世の化学者にとっては、今や不可欠な重水素という研究ツールが提供されたという方が、あるいは重要かもしれない。核物理学はもちろん、有機化学・生化学・医薬品研究・汚染物質分析に至るまで重水素の応用範囲は大変に幅広く、その存在感は近年さらに増しているように感じられる。

重水素の特徴を、以下に簡単にまとめておこう。

  1. 通常の水素(軽水素)のほぼ 2 倍の質量を持つ。
  2. 天然の同位体比は 0.015% とわずかであるが、水素そのものが極めて豊富に存在するため、比較的入手が容易。
  3. NMR, 質量分析などの手段で検知することが容易。
  4. 放射性を持たない安定同位体であるため、取り扱いに特別な施設や技術を必要としない。
  5. 化学的性質は軽水素と基本的に同等だが、やや反応速度が遅くなる。これを「重水素効果」と呼ぶ。

軽水素とほぼ同様にふるまうが検出は容易という重水素の特徴を生かし、現在まで様々な応用が行われている。有機化学者にとって最も身近なのは NMR の「重溶媒」としてであり、クロロホルムや DMSO、水など代表的な溶媒の重水素化体が市販されている。その他、反応機構・生合成経路・代謝経路などの追跡、さらに最近では創薬技法としても展開が進んでおり、その化合物への導入手法も急速に進展している。

標識としての重水素

重水素発見から間もない 1934 年、R. Schoenheimer は早くもこれを代謝経路追跡に用いる手法を発表している。彼は重水素を組み込んだアミノ酸や脂肪酸を動物に投与し、これらの重要な生体物質が素早く代謝され、入れ替わっていることを実証した。このアイディアは現在も有効であり、重水素を結合させた医薬品を用いて体内動態を解析する手段はスタンダードなものになっている。

重水素を導入した基質 1 で SN2'型反応を行うと、2 と 3 が 1:1 の割合で得られる。位置選択性が全くないことから、この反応は <b>4</b> のような対称的中間体を経由していることが示唆される。

反応機構の解明にも重水素は重要な地位を占める。たとえば上図に示すように、重水素を導入した基質 1 で SN2'型反応を行うと、23 が 1:1 の割合で得られる。位置選択性が全くないことから、この反応は 4 のような対称的中間体を経由していることが示唆される。

重水素効果の利用

一般に C-D 結合の反応速度は、C-H 結合に比べて 6~10 倍ほど遅いとされる。この重水素効果を、反応機構の解明に用いることも広く行われている。しかし最近、この効果を天然物合成に応用する例が登場し、注目を集めている。宮下正昭らのグループが報告した、ノルゾアンタミンの全合成はその代表的なものといえる 2)

ノルゾアンタミンの全合成

5 に塩基を作用させてアルキン 6 を得ようとした際、7 のような副生物が多量に生成した。これは[ ]内に示したようなヒドリド移動が起きたためと考えられる。そこでこの移動を起こす水素を、反応の遅い重水素に置き換えたところ、副反応が抑制されて大幅な収率の改善に成功した。重水素効果を巧妙に利用した、鮮やかな手法といえる。

「重薬」の登場

さらに近年では重水素効果を創薬に応用する例が出現し、Nature 誌でトピックとして取り上げられるなど話題を呼んでいる 3)。医薬は体内に取り入れられると代謝を受け、不活性な化合物や体外に排泄されやすい形に変換されて効果を失うことが多い。そこで代謝を受ける位置の水素原子をハロゲンやメチル基などに置き換え、代謝を防ぐ手法がよく用いられてきた。しかしこうした変換により、肝心の生理活性や水溶性が落ちてしまうケースも少なくない。

重ベンラファキシン
重ベンラファキシン

そこで、代謝を受ける水素原子を、重水素に置き換える方法が提案された。重水素は分子全体の性質にほとんど影響を与えず、代謝反応の速度だけを低下させるから、この目的にうってつけといえる。たとえば抗うつ薬ベンラファキシンは代謝によって N-メチル基が切断され、活性を失うことが知られている。このメチル基の水素を全て重水素に置き換えることで、この代謝を防いで体内での持続時間を改善するというアイディアだ。

また、多数の医薬を服用している患者の場合、単独の医薬を飲んでいる場合と異なる危険が発生することがある。あるひとつの薬が代謝酵素の働きを阻害してしまい、他の薬が分解されなくなって異常に血中濃度が上がってしまうケースが多い。この「薬物相互作用」を、重水素化によって軽減する手段も検討されている。

パロキセチン
パロキセチン

例えば抗うつ剤パロキセチンは、メチレンジオキシフェニル基を置換基として持ち、この部分が肝臓の代謝酵素 CYP と不可逆的に結合してその作用を阻害してしまう。しかし重水素を導入したパロキセチンではこの反応の速度がずっと低下するため、問題となる薬物相互作用が抑制されるという。

その他、体内で毒性のある代謝物ができてしまう場合、重水素を適切な位置に導入することで、これを防げる可能性もあるだろう。また、体内での代謝分解を抑制すれば薬剤の投与量をその分減らすことができ、患者の負担軽減につながることも考えられる。実際、上記ベンラファキシンのケースでは持続時間延長の他に、副作用の改善も見られたという(Auspex 社プレスリリースによる)。こうした重水素化医薬――「重薬」とでも称すべき考え方は、今後さらに広く取り入れられてゆくであろう。

重水素の導入

これら新たな用途の開発により、重水素を化合物の特定位置に導入する手法のニーズはさらに高まっている。よく行われているのは、重水素をあらかじめ組み込んだビルディングブロックを用いることだ。現在ではヨウ化メチル-d3 やヨードベンゼン-d5 など信頼性の高い重水素化合物が試薬として市販されており、容易に入手が可能となっている。また重水素化ホウ素ナトリウム(NaBD4)や、重水素化アルミニウムリチウム(LiAlD4)などの還元剤も、重水素導入に効果的に使用可能である。一例として、重水素化された「キラルなネオペンタン」の合成例を示す 4)

キラルなネオペンタンの合成例

医薬品の体内動態解析などの目的には、多数の重水素を持った化合物を多量に用意する必要がある。このためには、既存の化合物の水素を効率的に重水素に置換する方法があれば都合がよい。

Hartwig らは、イリジウム錯体を触媒として、化合物を重ベンゼン中で撹拌すると、基質の sp2 炭素についた水素原子が重水素に変換されることを見出した 5)。溶媒に含まれる重水素との交換によって進行するものと考えられ、穏和な条件で進行するため合成的価値が高い。

イリジウム錯体を触媒として、化合物を重ベンゼン中で撹拌すると、基質の sp2 炭素についた水素原子が重水素に変換される

一方、岐阜薬科大の佐治木らは、パラジウム炭素を触媒とし、水素ガス(重水素である必要はない)雰囲気下、重水中で目的の基質を加熱撹拌するだけで、アルキル基の水素原子が効率よく重水素に置き換わることを見出した 6)。ハロゲン化アリールに適用すれば、芳香環上の特定の位置だけを重水素化することも可能となる。

パラジウム炭素を触媒とし、水素ガス(重水素である必要はない)雰囲気下、重水中で目的の基質を加熱撹拌するだけで、アルキル基の水素原子が効率よく重水素に置き換わる

パラジウムの代わりに白金触媒を用いれば、アルキル基ではなく芳香環上の水素原子が置換される。特に電子豊富な芳香環で進みやすい。

軽水素雰囲気下で反応を行いながら重水素化が進むのは不思議にも感じられるが、これは触媒の作用によって重水との交換が起こり、系内で軽水素より遥かに多量の D2 ガスが発生しているためと考えられる。戦略物資に指定されているため入手の難しい D2 ガスを直接用いず、重水中で単に加熱するだけで効率よく重水素の導入ができるため、合成的に極めて有用である。

触媒の作用によって重水との交換が起こり、系内で軽水素より遥かに多量の D2 ガスが発生している

重水素の利用範囲の拡大はさらに進んでおり、そのニーズに合わせて重水素化反応の開発もさらに進展するであろう。特に創薬領域での利用は、未開拓の部分も大いに残されていると考えられる。水素にして水素にあらざるこの同位体の可能性は、まだまだ大きいのではないだろうか。

参考文献

  1. H. C. Urey et al.:J. Chem. Phys., 1, 137 (1933).
  2. M. Miyashita et al.:Science, 305, 495 (2004). DOI: 10.1126/science.1098851
  3. K. Sanderson:Nature, (2009). DOI: 10.1038/458269a
  4. J. Haesler et al.:Nature, 446, 526 (2007).
  5. 総説 J. Atzrodt et al.:Angew. Chem. Int. Ed., 46, 7744 (2007).
  6. 総説 有機合成化学協会誌:65, 1179 (2007).

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