【連載】Wako Organic Chemical News No.05「Trost酸化」
今月の反応・試薬 「 Trost酸化 」 サイエンスライター : 佐藤 健太郎氏
アルコールから、アルデヒドまたはケトンへの酸化は、有機合成において最も頻出する反応のひとつであり、古くから様々な方法が工夫されてきた。かつてはこの目的に、クロム酸塩類がよく用いられていたが、毒性や環境負荷など多くの問題があった。しかし近年では改良が進み、安全性・操作性・選択性が改善された反応がいくつも報告されている。化学者はそれらの特徴をよく知り、状況に応じて使い分けなければならない。中でもSwern酸化、Dess-Martin酸化などは、多くの化学者がレパートリーとしているものだろう。
いわゆるTrost酸化はこれらほど広く利用されてはいないが、特長ある優れた反応だ。B. M. Trostらが1984年に報告した反応で、モリブデン酸アンモニウム (NH4)6Mo7O24の存在下、過酸化水素を酸化剤として行う反応だ1)。
通常、酸化反応において一級アルコールと二級アルコールの反応速度差は小さく、区別して酸化することは難しい。しかし、両者が混在している基質の二級アルコールのみを酸化したいというケースは、少なからず現れる。一般的な酸化剤を使う場合、一級アルコールをいったん保護し、二級アルコールの酸化を行った後で、一級アルコールを脱保護するという手順を踏まねばならない。この方法では時間とコストがかかる上、総収率の点でも不利となる。
こうした際に、有用なのがTrost酸化だ。この方法では、一級アルコールは酸化されず、二級アルコールのみが酸化されるという著しい特徴がある。このため、先に述べたような保護・脱保護などの工程を省くことができ、多くの官能基を持つ化合物の合成に威力を発揮する。
たとえばPaquetteらは、ヒドロキシケンペノンの全合成においてTrost酸化を活用している。下図のように、一級アルコールを残して二級アルコールのみがケトンへと変換されている2)。
また、化学反応の常識に反し、Trost酸化は同じ二級アルコールでも、立体的に混み合ったヒドロキシ基を優先的に酸化する。また、シクロペンタノールはシクロヘキサノールよりもずっと速く反応する。下図はその例である1)。
Trost酸化は、炭酸カリウムを加えて弱塩基性で行う。このpH調整は重要で、炭酸カリウムなしで反応を行うと、アルコールよりも二重結合のエポキシ化が優先して進行する。塩基は、酸化の際の水素引き抜きに寄与していると考えられる。
また相間移動触媒として、塩化テトラブチルアンモニウム(n-Bu4NCl)を加えるが、代わりにフッ化テトラブチルアンモニウム(n-Bu4NF)を用いれば、シリル基の脱保護と酸化を同時に行うことができる。宮下・谷野らによるノルゾアンタミンの全合成において、この方法が活用されている3)。
溶媒としては、THFがよく用いられる。触媒となるモリブデン酸アンモニウムは、通常は白色の粉末だが、活性種は紅褐色を示す。反応が進行して、過酸化水素が消費されると色が消えるので、そのたびに追加の過酸化水素を滴下する。
反応終了後は、大量合成であれば濾過・水洗で過酸化水素を除き、精製を行う。小スケールであれば、反応液をそのままシリカゲルカラムにかけて、クロマト精製を行う方法が簡便である。
Trost酸化の応用としては、前述した通り二重結合のエポキシ化反応がある。また下図のように、スルフィドはスルホンへと酸化される4)。これは、二重結合のエポキシ化より優先して進行する。官能基選択性に優れるため、近年Julia-Kocienskiカップリングの中間体合成に用いられるケースが増えている。なおこれらエポキシ化及びスルホン化では、いずれも炭酸カリウムを加えずに酸化を行う。溶媒には、エタノールなどが用いられる。
モリブデン酸アンモニウムは白色の結晶で、水には溶けやすいがエタノールなどには溶けにくい。比較的安価であり、扱いやすい試薬である。酸化剤としては、入手容易な30%過酸化水素水が利用できることも、Trost酸化の利点である。ただし過酸化水素は、高濃度では爆発などの危険があるので、過剰な過熱や濃縮などは行なわないよう、使用の際には留意する必要がある。遷移金属の過酸化物はやはり爆発の危険があるため、金属やその塩に触れさせてはならない。また過酸化水素が皮膚につくと痛みを発し、白く変色するなどの影響が出るため、保護手袋・眼鏡着用の上で実験を行うべきである。
一級・二級アルコールを区別して酸化できるのがTrost酸化の大きな特徴ではあるが、Swern酸化などの悪臭や実験操作の煩雑さもなく、酸化反応にありがちな爆発や引火などの危険も比較的低い。単に二級アルコールの簡便な酸化方法としても、Trost酸化は記憶に値する便利な反応といえるだろう。
参考文献
- B. M. Trost and Y. Masuyama Tetrahedron Lett., 25, 173 (1984).
- L. A. Paquette et al., J. Am. Chem. Soc., 114, 7375 (1992).
- M. Miyashita et al., Science, 305, 495 (2004).
- B. M. Trost et al., J. Am. Chem. Soc., 131, 17089 (2009).
注目の論文
①Hydrodeoxygenation of Vicinal OH Groups over Heterogeneous Rhenium Catalyst Promoted by Palladium and Ceria Support
Angew. Chem. Int. Ed. Early View DOI:10.1002/anie.201410352
ReOx-Pd/CeO2という不均一触媒を用いて、水素ガスを用いた還元反応を行うと、1,2-ジオールがアルカンへと還元される反応が報告された。まずジオールにレニウムが配位し、脱離してオレフィンを生成し、これが水素化されてアルカンを生じていると考えられる。著者らの狙いはバイオマスからのTHF生産だが、合成反応としてのポテンシャルも備えていそうである。
②Structure of a designed protein cage that self-assembles into a highly porous cube
Nature Chem. 6,1065 (2014) DOI: 10.1038/NCHEM.2107
近年、DNAを望みの形に切り貼りし、星形や立方体などに仕立てる「DNA折り紙」と呼ばれる手法が大きく進展している。しかしより複雑な構造を持つタンパク質では、こうした自由に形状をデザインすることはほとんど成功していなかった。今回著者らは、アミノ酸配列をうまく工夫し、初めてタンパク質を素材として立方体を組み上げることに成功した。
③Enantioselective Synthesis of ( − )-Maoecrystal V by Enantiodetermining C − H Functionalization
J. Am. Chem. Soc., Article ASAP DOI:10.1021/ja510573v
難関天然物として知られるMaoecrystal Vの、初の不斉全合成。C-H結合への不斉挿入反応、ボロン酸への水酸基の配位を利用して立体制御を行ったDiels-Alder反応などを駆使し、連続した四級不斉中心を含む複雑な骨格を、短工程で合成している。