富士フイルム和光純薬創立 100 周年記念「第1回 創立前後の歩み」
第1回 創立前後の歩み
当社は1922年6月、"くすりの町"と呼ばれる大阪市中央区の道修町(どしょうまち)で 産声を上げました。以来100年間、戦争や災害、そして復興など、社会と事業環境の数々の変化を乗り越えて成長を続け、現在に至っています。第1回の今回は、創立前後の歴史を振り返ります。
大正初期、学術研究に用いられる試薬は微々たるもので、国産といえばわずかに酸類の精製品か、あるいは若干の無機薬品のみが市場に出回っている程度で、その他の必要品はすべて輸入に頼らねばならない状況でした。このような情勢の中で我が国の研究活動が盛んになり、それに伴い試薬の需要が急増していきました。
こうした背景を踏まえ、5代目武田長兵衛(図1)は、かねてからの報恩、感謝の念から、「学界の研究者のお役に立ちたい」と念願し、武田長兵衛商店内に化学薬品部を設けました(図2)。そこで、海外の実験用純良化学薬品の輸入を開始していましたが、試薬特有の用途・取扱に対応すべく、専門的担当の一機関を設けるため、1922年6月、当社の前身である「武田化学薬品株式会社」の設立に至りました。
その後、海外からの輸入だけでなく自社製造、国産化に熱意を傾け、創立から10年もたたないうちに自社生産体制を整え、製造品目も充実させていきました。その数は、1930年ごろには輸入試薬4,000種、国産試薬1,100種に及んでいます。
日本が周辺諸国へ勢力を拡大するようになると、アジア地域での製品需要が増大し、従来の製造規模では生産が追い付かなくなりました。そこで、国産化体制を確立するために当社独自の工場建設に取り組みました。
その第一号となった尼崎工場(図3)は、1940年に完成し試薬国産化の本格拠点として稼働しました。続いて、4年後の1944年1月東京工場が開設され、これにより東西に おける生産拠点体制が完成しました。
本報においては、1925年の創刊号(図4)から毎回その数ページを割いて外国製品を紹介していましたが、1940年ごろにはその姿を消しています。これは、海外からの輸入に頼らずとも国内需要に十分応えていたことと同時に、高品位の自社製品の比重が増加していったことを示しています。
現在、当社で扱う試薬は約4万7千種類です。これからも高品質かつ安心・安全な製造技術を柱に、国内外にWakoブランドの製品を安定的に提供することを目指します。